法律の世では人間よりもモノを重視する

これらの判決からもまた、交通犯罪に対する寛容さが読み取れる。麻薬や銃が、我々の社会に害毒しかもたらさないことは確かである。しかし上記の麻薬密輸入は、個人的に用いるためのものであって、その行為が他人に直接の被害を及ぼしたものではない。短銃持ち込みのケースにしても、持ち込んだ機長本人が、それで他人に危害を加えたわけではない。これらに対する量刑が一人の人間の生命を奪った交通犯罪の罰よりも重いというのは、生命を奪われた側からすれば、得心が行かない。裁判所の判決は交通犯罪に寛容にすぎるのではないか。

このような結果は、法律の世界が人間よりもモノを重視し、麻薬や銃よりも車に甘い、というわけではなく、日本の刑事法が「内心の意思」を重視しているからだと考えるべきなのかもしれない。刑法三八条は「罪を犯す意思がない行為は罰しない」と規定し、故意犯が原則的な犯罪であることを明示している。刃物で人を刺し、刺された人が死亡したという犯罪が起こったとして、現在の刑法では、その犯人の意思がどうであったかに応じて、量刑は死刑ともなれば無罪ともなりうる。

なぜならこの行為に対しては、①加害者に殺意があれば殺人罪↓死刑・無期もしくは三年以上の懲役。②被害者を傷つけるだけのつもりならば傷害致死罪↓二年以上の有期懲役。③傷つけるつもりもなく、誤って刺しただけならば過失致死罪五〇万円以下の罰金。④過失もなければ無罪。のいずれかが適用されることになるからである。

これまでに掲げた例に則して言えば、交通事故の量刑が窃盗や詐欺、さらには麻薬所持や短銃密輸のそれに比べて軽すぎるように思われるのは、一方が故意で行われたものであるのに対し、交通犯罪は「起こそうと思って起こしたものではない」からだということである。しかし。交通犯罪は本当に「故意ではない」のだろうか。車に榛かれれば死ぬ、というのは幼児でも知っている理屈である。それを車を運転する大人が知らないはずはない。

信号を無視して走れば車は人を殺す凶器になるということを、車を運転する人が認識していないはずはない。もちろん信号を無視して車を走らすことで、特定の人間を殺そうという意図が運転者にあるわけではないだろう。しかし、停止信号を無視して横断歩道を突っ走れば、人間を蝶き殺すことになるかもしれないという認識は誰もが持っているはずである。そのような認識を持っているにもかかわらず、現に信号を無視して走るというのは。それによって他人をあやめてもかまわないということではないのか。

公益法人数の推移

株式会社の財務資料に比べると非常にわかりにくく、運営の財政的状況を正確に映している、とは到底思えないものだ。総理府の調査によれば、公益法人数は九九年一〇月一日現在、二万六三五四法人に上る。うち社団法人が一万二八七二、財団法人が一万三四八二。うち高度経済成長期に入った一九六六(昭和四一)年以降に設立された法人が、全体の七割強を占める。

公益法人数の推移をみると、年々増加してきたが、九九年になって風向きが変わり、国所管法人、都道府県所管法人合わせて二六法人、○・五%減少した。これは公益法人への世論の批判が高まったことと無関係ではない。行政改革の一環として都道府県における外郭団体の整理・統廃合や休眠法人などの解散が増えたためである。

公益法人は一法人当たりでみると、収入・支出とも平均値で年間八億円足らず、職員数で二一人弱と小さくみえるが、その全体像となると巨大な規模になる。年間収入・支出とも総額で二〇兆円を超え、九九年度国内総生産(GDP)規模(名目約四九四兆円)の四%に達する。

職員数は銀行の従業員を上回る約五四万八〇〇〇人で、生命保険とほぼ肩を並べる。奇妙なのは、理事数がやたらと多く、四二万三〇〇〇人近くにも上ることだ。公益法人の設立許可と指導監督の権限は主務官庁に与えられているが、この主務官庁のほか機関委任されている各省庁の地方支分部局の長、都道府県知事、都道府県教育委員会も同様の権限を持ち、これらは公益法人の「所管官庁」と呼ばれる。公益法人全体の七四%が都道府県の所管だ。都道府県所管の公益法人の場合も、まるで国所管法人のクローンのように、問題法人が量産されてきた。

都道府県がどれだけ安易に公益法人の設立に手を貸したか、を示すものに、神奈川県教育委員会が作成した「公益法人設立の手引」(九六年三月発行)がある。この中にご丁寧にも、既存の任意団体が社団法人を設立する場合の設立趣意書の作成例が盛られている。これを読んで○○部分に適当な言葉を記入すれば、形式要件が整うようになっている。「……○○の健全な発展、○○の向上を図るには、○○に関する調査及び研究や○○を行うことが是非とも不可欠です」などと書かれてある。

粘膜における偽膜形成

粘膜における偽膜形成のような病変も生じない。これは一見不思議なようであるが、つぎのように考えられるだろう。咽頭粘膜に定着したジフテリア菌が粘膜の上で毒素を作ると、この毒素によって粘膜組織の壊死が小規模に起こる。この壊死は、肉眼では見ることができないほど微小なものと考えられるが、粘膜組織の壊死の結果、毛細血管の中にあった血液とともに抗体も病巣の中に流れ込んでくる。そこで毒素は中和され、毒素の毒作用はそれ以上発揮されることがない。つまり毒素が組織に壊死を起こさせるやいなや、毒素は却の抗体によって中和されてしまうので、肉眼で認められるような大きな病変は作られないという結果になる。

もちろん毒素は心臓に到達する前に中和されてしまうので、心不全で死ぬことはない。一方、ジフテリアから回復した人が獲得する免疫の本体は、血液の中にある貧の抗体のほかに、粘膜に分泌される貧y抗体というものも加わる。さらにこの場合には、毒素を中和する粘膜分泌抗体のほかに、ジフテリア菌が粘膜に定着する上で役に立っていると考えられる、菌表面にある別の抗原に対しても、この粘膜分泌抗体が作られると考えられしたがってジフテリアから回復した後に得られる、病後免疫といわれるものをもっている人の粘膜には、毒素を作らないジフテリア菌の定着も起こりにくくなっていると想像される。

市場メカニズムを超えた存在

日本企業は、この難しい課題への挑戦を余儀なくされようとしている。個々の商品やサービスについての充足度がすでにかなり高水準にある成熟化した日本市場−かといって、海外市場でのシェア拡大にも制約があるという事情−を前にして、企業は今後ますますこうした分野への進出にその活路を見いだすほかはなくなりつつある。

「生活総合産業」としてのシルバー・ビジネスたとえば、急速に進行する高齢化のもとで、企業はいま、いわゆるシルバー・ビジネスあるいは「福祉産業」への進出を図っている。しかし、そもそもシルバー・ビジネスは、公的福祉と関わりながら、さらに地域の生活空間をどう設計するかといった問題にも関連する、まさに「生活総合産業」としての性格を持っている。

いま仮に、ある建築業者が住宅施設業者と協力して、高齢者への気配りに満ちた高齢者仕様の住宅を開発し、これを建てたとしよう。しかし、ただちにそれが高齢者の使用に付されるかといえば、そこにはさらにいくつかの条件が必要になる。たとえば、その地域にはホームヘルパー訪問介護のシステムがあるか、ショートステイデイケア施設があるか、緊急時に備えた病院との連携システムはあるか、予防保健・リハビリを含む医療サービスがなされているか、などが問題になるし、さらには高齢者の住宅取得への自治体からの援助や、高齢者を受け入れやすい地域コミュニティの存在なども必要になる。こうしたトータルな「生活の場」の創出ということがあって、「高齢者仕様の住宅供給」ということも生きでくるのである。

もちろん、たとえばかつて自動車産業が出現するさいにも、幅広い関連産業や政策的な支援が必要であった。たんに自動車そのもののモノづくりに関連する産業だけでなく、石油の安定的な輸入とその供給体制の確立、また国家をあげての道路交通網の整備といったことが必要であった。

しかし、こうした「自動車産業の創出」と、現在求められている「シルバー産業の創出」との間には決定的なちがいがある。それは、前者の場合には自動車とそれに関わる商品やサービスを供給する企業、それを利用する消費者、そしてその環境を整備する行政という三つの主体の関わりによって産業の創出がなされたのに対し、後者の場合には新たにもうひとつの「主役」が必要になるという点である。それは、「高齢者福祉」を支えるボランティアを中心とした民間の「非営利組織」(NPO)である。市場メカニズムを超えた存在を前提にしなければ、「産業」が存立しえないというところに、きわめて現代的な特色があるといえる。

そのままの島の風景

また東京でも、例えばJR線の車両でドアの上に貼ってある案内路線図のローマ字表記が非常に小さいことに気づく。日本語表示と比較すると、フォントの大きさは実に9分の1。これでは乗車中に「今どのあたりを走っているのか」「本当にこの電車でいいのか」と不安になっても、よほど近づいて確認しないとわからない。2008〜9年にギリシャで放映されたテレビ番組「Big In Japan」で、日本を訪れたギリシャ人が自力で指定された目的地にいけるかどうかチャレンジする企画があった。演出もあるだろうが、これが困難を極めていた。イギリスBBC制作の人気テレビ番組「Top Gear」でも、日本の公共交通機関を利用して目的地にたどりつけるか挑戦する回(2008年放映)で、レポーターが電車の乗り継ぎがわからなくて手間取ったり、反対方向の電車に乗ってしまうなど、混乱に陥っている様子が映し出された。

ギリシヤの交通機関はこの点がうまく考えられている。多くの国際空港のなかでも外国からの入国者数トップのアテネのエレフセリオスーヴェニゼロス国際空港は、外国人が個人で降り立っても問題がない。理由は英語表示が整っていることと、置いてあるルートマップが分かりやすいことだ。それで初めての観光客もアテネ市街に出たり、周辺を公共交通機関でまわることが難しくない。自動車道についても最近は整備が進み、田舎の道にも必ず英語標識がある。日本人個人旅行者曰く、レンタカーを借りてあちこち回るのは難しくないということだ。

2010年11月、ミコノス島はロンドンで開催された欧州最大規模の観光博覧会で「ベストーヨーロピアンーアイランド賞」を受賞した。これは世界的に人気のあるアメリカの旅行雑誌の読者投票によって選ばれる賞で、地中海リゾートとして名高いイビサ島マヨルカ島などを引き離し、7年連続で賞を獲得した。また発行部数90万部を誇る高級旅行誌の2011年度の投票でも、ワールドーペストーアイランドとしてトップに輝いたのはサントリーニ島。これらの投票理由には、美しいビーチがあるというだけでなく、観光客がその島独自の景観を眺め、日常を離れたリゾート気分を満喫できるからというものが挙げられた。

ギリシヤ観光のふたつめの特徴は、景観の保存である。日本でも町並み保存として、近年同じ取り組みがなされているのをご存知の方も多いだろう。クレタ島やロドス島などの代表的な島には一部、アメリカ式の大型ホテルがあるが、ほか大半の島々の建築物は伝統的な造りが保たれている。代表的なのはサントリーニ島の洞窟式(キクラデス様式とも)ホテルで、各々が断崖に沿って建てられた一軒の家の造りになっており、建物の奥の部分は断崖を掘り進んだ洞穴空間を利用。構造上、2〜3階建てがせいいっぱいのため、宿泊者数が多くなく、同フロアに部屋が幾つかあっても別階段で出入りするため、いわば「離れ」のような落ち着いた雰囲気を味わいながら過ごすことができる。

景観の保存には、島に住む一般の人々の住宅も含まれる。サントリーーニ島のイアでは高層建築が禁止されており、先の洞窟式を守ることが推奨されている。また色調は白い壁、木の窓枠は青が基本などと細かく決められている。このような条例がない所に比べたら、建築や修理費用は何倍にも嵩むそうだが、それでも島全体のメリットの方が大きいと、中央行政機関の決定を待たずに、市町村の行政レベルで進められている場合が多い。実際、市長や市議会議員なども、ホテルやレストーフン、カフェなどの経営者であったりして、観光を促進することが第一なのだ。こういった仕組みで青い海、青い空と白い家並みというコントラストが保たれている。

一律からは独自性あるアイデアは生まれない

国籍、言語、文化、習慣等の違う社員が増え、今後ますます進むグローバル化のなか、当社の教育は今後どうあるべきか、この研修所はどうあったらいいかを考えました。リーダーシップやマネジメントを学ぶ場として活用するのはもちろん、技術の裾野を広げ、さらに可能性を広げていき、技術者同士が切磋琢磨し活性化できる場としても活用したいと思いました。また、メーカーの原点である技能を学び伝承していく場ともしました。ここでは、ろう付け、旋盤、溶接、板金プレスなどダイキンの技能の原点とも言える機械を置いています。オートメーション化か進む現在ですが、この原点を忘れず、技能をしっかり学び、経験を積んでほしいという考えからです。

この施設は、研修がないときには社員の憩いの場としても開放したい、さらに地元地域の方々の利用、今回のように交流の場としてコンサートやパーティーもできる多目的な施設にしたいと考えました。また作る以上は、やはり20年、30年先まで残るもの、飽きのこない、ぬくもりのあるものを作りたいと検討を重ねて参りました。上は74歳、下は23歳と熟壮青、男女入り混じったプロジェクトメンバーを集め、どのような独自性をこの研修施設に求めるかを日々話し合い、進めて参りました。当社にも一級建築士かおりますが、彼らプロの意見とともに素人の女性社員が持ってきたアイデアが実はこの施設には多く詰まっています。

そのほかにも「一律からは独自性あるアイデアは生まれない」という考えから、デザインや内装にも徹底して差別化・工夫を凝らし、多様性を求めて参りました。ダイキン独自のスタイルで経営幹部育成塾という研修をスタートさせ、4年がたちます。これまでに多くの日本企業のトップ、経済界をリードする方々に、経営トップとしてのお話をお聞かせいただき、ご指導いただきました。世界を代表する学者、経営者の方々がここアレスに来て指導してもいいと思ってもらえるよう、ほかに例のないようなゲストルームも用意しました。また、グローバルということで、海外からの研修生が日本の伝統・美についても触れられる場として和室なども用意しました。最後に、この「アレス」という名前についてですが、アレスとはラテン語で「夢や未来に向かって羽ばたく」という意味です。ここで研修を積み、世界や未来、夢に向かって羽ばたいてほしいという願いを込めました。

「山田(稔)はんが次の社長はおまえやと言うとるで。会社へ戻ったらすぐ社長室へ行きや」。出張先への思いも寄らない電話に私はぼうぜんとした。平凡なサラリーマンとして生きてきた自分が社長になるとは信じがたい。そのうち取り消されるかもしれない。1994年6月の就任日まで地に足がつかなかった。このときの電話の相手は菅沢清志会長。山田社長には出張から戻るとすぐに会いに行き、「会長から聞きましたけど」と質問すると、「ああ、そのことは特に言うことはないから」と社長交代の件には触れない。菅沢会長に愚痴をこぼすと「山田はんはそういう人や。照れてるんやろ」と取り合ってくれない。

山田稔さんはダイキン工業の前身、大阪金属工業の創業者、山田晃さんの長男。3代目社長として在任22年。後継人事がマスコミなどで話題になり、有力候補とされる人はほかにいた。私は入社以来、希望する部署に配属されたためしがなかった。社長就任も予期せぬ展開だった。それから13年あまり。ダイキン空調機と化学事業を柱に成長を続けてきた。空訓機では世界シェア2位となり、1位をうかがう位置につけている。戦後間もなく3度も整理し、「ボロキン」とひやかす人もいた会社は今やグローバル企業に変身し、2007年度に連結売上が1兆2000億円に述する見込みだ、。いつ、どのように経穴に開眼したのかと尋ねて下さる方がいるのは光栄だが、払の性格や行動は幼いころから実はあまり変わっていない。

これは大きなパラダイムの転換である

自身の思い出話で恐縮ではあるが、2004年の秋頃の話をしよう。当時大学生で就職活動を始めたばかりだった私は、元大手出版社の人事部長をしていて、今は大学教授をする先生から、「最近は新卒でも即戦力が求められている」という話を聞いた。私はそのとき、「新卒に求められる即戦力とはなんですか?資格でしょうか」と聞いたのだが、教授は「違う」と言ってこう答えた。「新卒で即戦力になる奴というのは、現場にホーンと放り込まれたときに勝手に成長する奴のことだ。『今、自分は何をすべきなんだろう』『これってなんだろう?』『どうすれば上手くいくんだろう』と自発的に考えて、分からなければ聞いて、調べて、行動して、失敗して勝手に学んで成長してくれる。

そういう、教育コストが不要で、自発的に成長していく人材がいわゆる『新卒で即戦力』になる奴だ」と。その話を裏付けるようなデータがある。2010年に楽天リサーチが全国の人事担当者に新卒学生に求めるものをアンケートしたところ、トップ3は「主体性」(62・1%)「実行力」(46・4%)「柔軟性」(40・9%)だった。結果を受け、楽天リサーチは、「新卒新人に対しても、より即戦力として、自ら行動し実現する力を期待しているようだ」と分析している。それにしても、なぜ企業は業務経験も専門知識も持だない新卒にたいしてまでも即戦力を求めるようになったのだろうか。就職コミュニティサイトを運営し、学生の就職支援、企業の採用支援を行う株式会社ジョブウェブ代表取締役社長の佐藤孝治氏は、ここ十数年の間に変質した企業にその原因があると分析している。

これまで日本経済の成長期には、(よい悪いは別として)企業が社会における人材育成の中心になってきた。仕事経験のない人材をまずは企業の内部に長期的に抱え込み、自分の手で育てていくというやり方で将来的な人材を確保するという戦略を企業はとってきた。見方を変えて言えば、日本社会としても、大学としても、両親としても、とにかく会社に入れてお任せしてしまえば、なんとか一人前にしてくれると思ってきたのである。

これまでは社会の役に立つ人材を育てる役目を負っていたのは企業だった。その結果、学校は主に教養を身に付ける場として、細かな知識の詰め込みや、大学受験に勝ち抜くための教育が行われた。社会で役立つような知識や技術のノウハウは、学校を卒業して企業で身に付けるものとなっていった。だがその後、なにが起きたのか。しかしこの十五年ほどの間に、企業は人を内部で育てていく力を急速に失っている。企業と個人の関係が「一生の付き合い」を保証しきれなくなっているため、リスク丸抱えでゼロから人を育てることに腰が引けるようになってきている。つまり、できることなら、なるべく高いレベルまで自力で育ってきてくれた人を採りたいと思うようになってきたのである。これが最近企業のよく言う「人材の即戦力性」である。

つまり企業は、「即戦力になるための教育は、もう企業では(できることなら)やりません。入社前に自分たちで済ませてきてください。そういう能力を持っている人を優先的に採用しますよ」と言っているのだ。企業は「戦力」を育てるための教育機能を内部に持つ余裕がなくなってきている。だから、入社試験を受けに来る前に自分でなんとかしてくださいと言っているわけだ。今までは社会(家庭、本人、大学)全体が、人を育てる役割を企業に丸投げしてきた。だから社会にその機能が備わっていない。そういう状態のまま、企業から「私はもう教育できません。皆さんのほうでお願いします」とバトンを渡されてしまったというのが現在の状態だ。今の学生はその両者の隙間のエアポケットに落ちて、受け取り手がない。