一律からは独自性あるアイデアは生まれない

国籍、言語、文化、習慣等の違う社員が増え、今後ますます進むグローバル化のなか、当社の教育は今後どうあるべきか、この研修所はどうあったらいいかを考えました。リーダーシップやマネジメントを学ぶ場として活用するのはもちろん、技術の裾野を広げ、さらに可能性を広げていき、技術者同士が切磋琢磨し活性化できる場としても活用したいと思いました。また、メーカーの原点である技能を学び伝承していく場ともしました。ここでは、ろう付け、旋盤、溶接、板金プレスなどダイキンの技能の原点とも言える機械を置いています。オートメーション化か進む現在ですが、この原点を忘れず、技能をしっかり学び、経験を積んでほしいという考えからです。

この施設は、研修がないときには社員の憩いの場としても開放したい、さらに地元地域の方々の利用、今回のように交流の場としてコンサートやパーティーもできる多目的な施設にしたいと考えました。また作る以上は、やはり20年、30年先まで残るもの、飽きのこない、ぬくもりのあるものを作りたいと検討を重ねて参りました。上は74歳、下は23歳と熟壮青、男女入り混じったプロジェクトメンバーを集め、どのような独自性をこの研修施設に求めるかを日々話し合い、進めて参りました。当社にも一級建築士かおりますが、彼らプロの意見とともに素人の女性社員が持ってきたアイデアが実はこの施設には多く詰まっています。

そのほかにも「一律からは独自性あるアイデアは生まれない」という考えから、デザインや内装にも徹底して差別化・工夫を凝らし、多様性を求めて参りました。ダイキン独自のスタイルで経営幹部育成塾という研修をスタートさせ、4年がたちます。これまでに多くの日本企業のトップ、経済界をリードする方々に、経営トップとしてのお話をお聞かせいただき、ご指導いただきました。世界を代表する学者、経営者の方々がここアレスに来て指導してもいいと思ってもらえるよう、ほかに例のないようなゲストルームも用意しました。また、グローバルということで、海外からの研修生が日本の伝統・美についても触れられる場として和室なども用意しました。最後に、この「アレス」という名前についてですが、アレスとはラテン語で「夢や未来に向かって羽ばたく」という意味です。ここで研修を積み、世界や未来、夢に向かって羽ばたいてほしいという願いを込めました。

「山田(稔)はんが次の社長はおまえやと言うとるで。会社へ戻ったらすぐ社長室へ行きや」。出張先への思いも寄らない電話に私はぼうぜんとした。平凡なサラリーマンとして生きてきた自分が社長になるとは信じがたい。そのうち取り消されるかもしれない。1994年6月の就任日まで地に足がつかなかった。このときの電話の相手は菅沢清志会長。山田社長には出張から戻るとすぐに会いに行き、「会長から聞きましたけど」と質問すると、「ああ、そのことは特に言うことはないから」と社長交代の件には触れない。菅沢会長に愚痴をこぼすと「山田はんはそういう人や。照れてるんやろ」と取り合ってくれない。

山田稔さんはダイキン工業の前身、大阪金属工業の創業者、山田晃さんの長男。3代目社長として在任22年。後継人事がマスコミなどで話題になり、有力候補とされる人はほかにいた。私は入社以来、希望する部署に配属されたためしがなかった。社長就任も予期せぬ展開だった。それから13年あまり。ダイキン空調機と化学事業を柱に成長を続けてきた。空訓機では世界シェア2位となり、1位をうかがう位置につけている。戦後間もなく3度も整理し、「ボロキン」とひやかす人もいた会社は今やグローバル企業に変身し、2007年度に連結売上が1兆2000億円に述する見込みだ、。いつ、どのように経穴に開眼したのかと尋ねて下さる方がいるのは光栄だが、払の性格や行動は幼いころから実はあまり変わっていない。