フィリピン・権威主義開発体制の陥穿

フィリピンは長らくアメリカの植民地であった。アメリカの指導下に「アメリカンーデモクラシー」を採用し、フィリピンはアジア忙おいては希有な民主主義代議制を擁した国として、第二次大戦後の開発期を迎えた。独立後も国民党と自由党の二大政党制のもとにあり、事実、政権はこのふたつが交代しながら進んだ。

マルコスもまた二大政党のもとで戦われた一九六五年の総選挙で大統領に選出された。一九六九年の総選挙でも、マルコスはフィリピンの選挙につきものの「カネとネポティズム」にまみれながらも、ともかくも民主的手続きをもって大統領に再選された。アメリカンーデモクラシーの「ショウーウインドウ」としてのフィリピンの代議政体は、少なくとも形の上では守られていたのである。

しかし、行政府が弱体であり、権力をもつ官僚テクノクラートをシステムとしてもっていなかったこの時点でのフィリピンは、財政的規律が弛緩しており、膨大な財政赤字を恒常化させていた。これに危機感を抱いたマルコスは、国際通貨基金IMF)の援助をえつつ、厳格な緊縮財政政策を発動した。

放漫な財政に馴れきってきた経済はこれにより「貧血状態」となり、ベトナム戦争の鎮静化にともなう「特需」の減少がこれに重なって、この時期のフィリピンは極度の経済的低迷を余儀なくされた。緊縮財政に対する国民諸階層、産業界からの批判は鋭く、マルコスはここに大統領三選禁止条項を無効化して、一九七三年九月、戒厳令を布告した。政治権力のすべてをマルコスに集めた、個人的色彩の強い集権的権威主義体制への移行であった。