多くのウイルス病は、ウイルス粒子ができる

多くのウイルス病は、ウイルス粒子ができると同時に宿主細胞が溶解してしまうが、これらのウイルスでも、どこかで宿主細胞あるいは宿主自身を直ちに殺さないような仕組みがあるはずである。ウイルスも、ウイルス粒子を作る増殖よりも、宿主細胞の一部として宿主細胞と共存しているほうが安定した存続が期待できると考えられる。ウイルスが感染する細胞の多くは分裂能力をもっていて、病後、宿主はウイルスの感染を免れた同種類の細胞の増殖によって破壊された跡を修復できる。しかし分裂能力のない種類の細胞がウイルス感染によって破壊されると、その細胞が司っていた機能が回復しない。

宿主細胞の中でウイルス粒子を作らないかたちの感染では、宿主細胞を分裂増殖させるように働く場合もある。ある種類のウイルスが腫瘍の原因となるというのも、ウイルスの種族保存の戦略のひとつの表現型であろうか。感染環の維持という点からは、ウイルスによる感染症や伝染病も、表面的には細菌による感染症や伝染病と同じように取り扱える。

また、ウイルス粒子に対しては免疫グロブリン抗体が反応できるが、宿主細胞のなかに存在するウイルスは、キラーT細胞という特別なリンパ球によって宿主細胞とともに殺される。これと同時にウイルスに感染された宿主細胞は、自らもアポトーシスという、一種自殺に類する反応を起こすことによって、ウイルスの害がさらに拡大されることを防ぐようである。

中国が容認できない「二国論」

建国五十年の新中国の歴史は、急進社会主義路線を強行した毛沢東の三十年と、それを修正する形で七〇年代末から進められた近代化路線の郵小平の二十年に大別できる。

革命第一世代の毛沢東は、五八年の大躍進運動や、六六年からの文化大革命によって、中国に多大の災厄をもたらしたが、新中国を建国した「功績が七分、誤りが三分」と、今は評価されている。

これに対して、「改革・開放の総設計者」と呼ばれた革命第二世代の郵小平は、七九年からの二十年間に中国の国内総生産(GDP)の伸び率が年平均九・七パーセントに達する高度成長のレールを敷く一方、二国二制度」によって香港とマカオの主権回復を実現する大事業を実現させた。八九年の「天安門事件」は大きな汚点となったとしても、「新中国中興の祖」という評価は動くまい。

毛沢東、郵小平というユニークな二人のカリスマ的指導者のあとを継いだ江沢民国家主席を中核とする革命第三世代の中国現指導部は、「祖国の完全統一と中華民族の全面振興」「富強国家の実現」をスローガンに掲げて、共産党一党独裁体制を堅持しながら、改革・開放路線を突っ走っている。

現指導部が掲げるスローガンの中でも、とりわけ台湾の統一は、毛沢束も郵小平もついに果たせなかった中華民族の悲願だけに、江沢民主席の統一にかける執念は、並大抵のものではない。もし台湾統一が実現すれば、毛、郵の二人に並んで、中国の歴史に偉大な指導者として永久にその名を留めることができるからだ。

「不公平税制」としての法人税

課税の公平、不公平を判断しうるのは、おそらく自然人としての納税者だけであろう。そこで不公平税制の是正が最も大きな問題になるのは、所得税の世界においてである。ところが、大企業ほど税制上優遇され、税負担も本来のレベルより低すぎるという批判が、世間で根強く存在する。これは明らかに「実在説」の発想にもとづき、大企業ほど担税力が大きく、より税金を負担すべきだという主張につながる。

このように所得税と同様に、法人税を「不公平税制」の視点から評価するのにぱ全面的に賛成しえないが、しかし検討を要する問題も存在する。それが課税所得金額の算定にあだっての損金算入、つまり費用の範囲がどこまで認められるかの問題である。費用の範囲が拡大するほど、課税ベースは縮小され法人税の算出額も小さくなる。かりに、大企業ほど中小企業より認められる費用の範囲が大きいとすれば、やはり課税の公平感が損われることになろう。

損金算入にあたり最も議論をよぶのが、引当金、準備金の処理の仕方である。両者とも将来において発生または発生する見込みのある費用や損失のために、税法上あらかじめ損金として計上されるものである。現在法人税法において、引当金の繰入れについては貸倒引当金、賞与引当金、退職給与引当金などの六つが規定されている。

この引当金の方は、その狙いが明確である。つまり費用・収益対応の考え方にもとづき、将来見込まれる特定の費用や損失を当期の費用と認められる範囲内で損金算入として計上することになる。賞与や退職金の例から容易に、費用性の引当だと納得できよう。

問題は、準備金の積立ての方にある。これは特定の政策目的のために税法上特に認められるもので、租税特別措置法により規定される。具体的には、輸入製品国内市場開拓準備金や海外投資等損失準備金などが主なものである。

将来確実に見込まれる費用や損失に対する準備というより、どちらかというと利益隠しのための損金算入ではないかと、疑われる面も否定できない。高度成長期には準備金はかなりの規模で認められていたが、かかる批判に答え、近年、価格変動準備金をはじめ、かなり廃止された。

法人税の課税ベースの算定にあたり、更にもう一つ問題になるのが特別償却の損金算入である。特別償却というのは、特定の政策目的から設備の取得を促進する狙いで、通常より多額の減価償却費を損金として認め、設備導入時の税負担を軽減する制度である。たとえば電子機器利用設備や事業基盤強化設備を取得した場合に、この特別償却が税法上認められる。

引当金の繰入れ、準備金の積立て、そして特別償却の利用状況を企業規模別に調べると、大企業ほどこれらの制度を活用している割合は大きい。かかる点に注目して、法人税は「不公平」だと批判されることがある。これらを廃止すれば、何十兆円にも及ぶ新規の税収が挙げられるから、法人税の「不公平税制」を是正すれば消費税など不用になるといった乱暴な議論も、時折見かけられる。

しかしながら、「不公平税制」の元凶とされる制度の多くが、法人税の基本的仕組みに係わるものであったり、大企業ゆえに発生する費用とも関連している。実際の費用発生と大幅に乖離した引当金や準備金のルーズな利用や、寛大にすぎる特別償却などは、厳格にたえず見直されねばならない。しかしこれらの制度そのものを「不公平税制」ときめつけるのも問題であろう。

一歳きざみの年齢集団が意味するもの

あらゆる面で、不平等が存在してはならないのである。もちろん、あとでみるように、勤勉と努力と、そして幸運とにめぐまれた人間が、他の人間をひきはなして「成功」者になることはある。そこでは、成功した人間とそうでない人間とのあいだに、明白な落差がうまれるだろう。しかし、その落差が、はじめからあったのだ、という考え方をアメリカ人は否定する。出発点では、まったくおなじ条件であったものが、その後の個人の努力によって、差がつけられてゆくアメリカ人にとって、それは基本的確信の一部なのである。

いわば、それは、徒競走のルールのごときものである。同一のスタートーラインにならんで、用意ドンでいっせいに走り出す。それで徒競走の順位がきまってゆく。一等から三等までは賞品をもらえるが、そのほかは、なにももらえない。当然、ビリの人間もできてくる。しかし、出発点はまったくおなじであった。まったくおなじ条件ですべての選手は走り出した。頑張った人間が勝ち、力の足りなかった人間は敗れた、それだけのことだ。

人生においても原理はまったくおなじだ。結果として、優劣はついてくる。だが、スタートーラインは、おなじでなければならない。それでなければ、フェアでない。公正でない。多くの社会では、競争はかならずしもフェアでない。というよりも、そもそも競争の原理というものが存在しない。うまれながらにして、貴族の家にうまれた子どもは貴族であり、金持ちの家にうまれた子どもは金持ちである。出発点において、そこでは、あきらかに大きな差がついている。貧乏で、無名の人間がスタートラインにならんだとき、うまれながらの特権をもった人間は、はじめからゴールにはいって、テープを切っている。競争もなにもあったものではない。勝負は、はじめからきまっているのだ。

アメリカ人は、そういうハンディキャップつきの人生を否定する。アメリカでは、すべては同じスタートラインからはじまらなければならない。それが、アメリカ人の人生の原則である。まえに極端なアメリカ的思考パターンとして、七歳の子どもが六歳の子どもとあそぼうとしない、というエピソードを紹介した。だが、そのエピソードは、ハンデ抜きのフェアープレイの思想とかさなりあっている。七歳の子と六歳の子がいっしょになにかをする。しかし、そこでなにをしようと、七歳の子のほうが優位なのはあたりまえだ。

一歳きざみの年齢集団が意味するのは、たとえ一歳のちがいであろうと、とにかくハンディキャップを排除しようという思想である。六歳児は、七歳児から一年おくれて出発した。お互い、ハンデつきでつきあうのはおもしろくもないし、フェアでない。だからアメリカ人は、完全な同年齢集団というまったくおなじ条件の人間たちを基準にして生きる。はじめから勝負のわかった競争は、アメリカ人にとって、まったく無意味なのだ。

ネガティブな弁護士

この記事を読んで、どう思われるでしょうか。実際に皆さんがもし同じような問題に直面したら、どうするでしょうか。法律相談に行ったら、あまり難しいことは抜きに、「何も問題ありません。大船に乗ったつもりで私に任せなさい。何とかしますから」と言ってくれる弁護士と、「いろいろと問題がありますね」とか「裁判にすると大変ですよ、かくかくしかじかも覚悟してください」などと難しそうなことばかり言う弁護士に出会ったとします。

皆さん、どちらの弁護士に頼むでしょうか? 大方の人間の心理としては、前者に頼むだろうと思います。頼もしいし、何となく勇気づけられるから、というところでしょうか。

しかし現実には、先のような「弁護過誤」のケースになってしまうかもしれないのです。というより、傍目には、そうなる可能性が高いといっていいと思われます。こういうこともあって、弁護士の先輩・後輩の間では、事件の依頼かおるかどうかは非常に微妙な駆け引きによって決まる、などということが伝授されたりしています。

「あまりネガティブなことを言うのはいけないが、あまり言わなすぎてもいけない」というのです。ネガティブなことを言い過ぎると依頼者は逃げてしまうが、あまり期待させると、後で期待を裏切るようなことになったときに怖いから、というのがその理由です。

一番濃い時期の汚染大気

八四年から、北極圏に領土をもつ米国、カナダ、ノルウェーデンマークの四力国が共同調査に乗り出し、ようやく全容が分かってきた。スモッグは、幅一六〇キロ、厚さ三〇〇メートルもの帯となって、ときには地上八〇〇〇メートルもの高度に何筋にもなって出現していた。とくに二月から三月にかけてがもっともひどい。

二月の一番濃い時期の汚染大気には、一立方メートル当たり七〇〇マイクログラムニマイクログラムは一〇〇万分の一グラム)もの煤が含まれていた。東京でもっとも人気汚染がひどいときでも、せいぜい三〇○マイクログラム程度だ。その煤からは、ヒ素、鉛、マンガンバナジウムなどの金属およびフロンやクロロホルムなどの有機化合物までが検出された。

このころ、ノルウェーの北三○○キロのスバルバル駱島にある同国の大気調杏研究所(NILU)も、北極圏の大気汚染を捕らえていた。北緯八〇度にあるこの諸島は、水と岩でできた公害とは無縁の島々だ。ここで一立方メートル当たり五マイクログラムの亜硫酸ガスが検出された。雪や水を分析すると、一〇〜二〇ppb(ppbは一〇億分の一)の硫酸や硝酸で汚染されていた。ノルウェー南部の酸性雨の深刻な被害地と同程度の汚れ方である。旅客機の窓がこうした汚染で傷んだことは、明らかだった。

北極は、地球上でもっとも清浄な地と信じられてきた。最寄りの工場地帯からは数千キロは離れている。だが、冬になると北極圏に向かう風に乗って、汚染物質が運ばれてきたことは疑いない。とくに北極の冬は雪がほとんど降らず、汚染大気が洗われないままに長期間滞留することが、スモッグをひどくしている理由らしい。

その発生源をめぐって議論が沸騰している。米航空宇曲局ラングレー研究センターは、汚染大気に含まれるバナジウムに対するマンガンの比が、ソ連中央部のノリルスク銅ニッケル精練所の排煙に近いことを理由に、ソ連を汚染源だとしている。しかし、これだけでは量的にも説明できず、日本も含めて北半球各地から汚染が吹きだまった、と考える研究者も多い。

日本の雇用の最大の問題点は何か

いずれにしても、正社員願望がますます強くなることは間違いないだろう。身近な学生などの若者を見ていてそう思う。そのため、ブラック企業のように労働条件の悪い会社でも、若者が「正社員にしてくれ」と殺到する可能性は十分高い。人口減少・高失業率時代を上手く乗り切るために、どういう政策が必要かを考えることにする。企業が広告費を抑制しだしたことで、マスコミが企業に対して遠慮しなくなったこともあるのだろうか、ここにきて「製造業派遣を禁止すべきだ」「企業にもっと責任を負わせるべきだ」という議論が強くなっている。果たして企業に対する取り締まりを強化することだけで、雇用情勢は改善するものなのだろうか。

政府がどういう政策をとるべきなのかを考えるに当たって、もう一度何か問題なのかを整理しておこう。今後5年間もしくは近未来的に重要となる雇用問題は大きく四つに集約されるだろう。第一に、本書のテーマでもある人口減少・高失業率社会の到来である。①増加する非正社員がますます不安定化すること、②リストラの憂き目に遭遇する正社員は少ないと予想されるものの、少ない正社員の労働負荷はますます重くなり、人材の劣化が進むこと、③その一方で、人口減少で人手不足が続き、業種によっては今でも人手不足基調となっていることから、雇用が不安定化・流動化している一方で、必要な産業・職業に十分に人材が供給されていないという「雇用のミスマッチ」が生じていることである。

第二に、雇用のミスマッチの背景には「産業構造の転換」という大きな課題が存在することである。今回の金融危機でも、アメリカへの輸出と製造業に依存した産業・雇用構造を転換しきれなかったことが大きく響いている。内需主導・新産業の創出などが実現していれば、ここまで金融危機の影響は深くなかったはずだし、雇用失業情勢も悪化しなかったはずである。第三に、企業に雇用創出・維持を安易に依存できないことである。金融危機後の世界では企業の存在自体が非常に不安定化している。そのため、企業がいつまでも雇用を抱えているという前提の政策は難しい。正社員・終身雇用体制がどれだけ安定したものだとしても、企業の存在自体が不安定化すれば意味がないことは冷静に認識すべきだろう。

第四に、人口減少・高失業率社会などの課題に対して、政府主導の統一的な政策が見出せないことである。これまで見てきたように、雇用問題に対する企業の対応は千差万別である。終身雇用を維持しようとする製造業もあれば、中途採用を増やそうというサービス業もある。あるいは、正社員をあくまで中心に置く企業もあれば、多様な正社員制度を作ったり、非正社員を重視したりする企業もある。企業に応じて、どういう人事労務管理が合理的で比較優位になるのかは異なっている。企業だけではなく、働く側の意識も多様化していて、すべての人が正社員として働きたいと考えているわけではないし、「みんなで連帯して労働条件の改善を勝ち取ろう」という連帯感が働く人々の間に生まれているわけでもない。

その一方で、特定の働き方(典型的には大企業の正社員)だけを普通視するような政策に対しては、感情的な反発が強まることが予想される。それは昨今の公務員バッシングを見れば容易にわかる。公務員バッシングの背景には、公務員の不祥事という問題もあるが、最大の要因は官民の労働条件の乖離に対する感情的な反発である。このような情勢を考えると、「正社員・終身雇用制度だけが正しい働き方だ」という前提で、政府がすべての企業・労働者に「単一的で統一的な雇用政策」を強いることは難しいし、それは適切でもないということである。