一歳きざみの年齢集団が意味するもの

あらゆる面で、不平等が存在してはならないのである。もちろん、あとでみるように、勤勉と努力と、そして幸運とにめぐまれた人間が、他の人間をひきはなして「成功」者になることはある。そこでは、成功した人間とそうでない人間とのあいだに、明白な落差がうまれるだろう。しかし、その落差が、はじめからあったのだ、という考え方をアメリカ人は否定する。出発点では、まったくおなじ条件であったものが、その後の個人の努力によって、差がつけられてゆくアメリカ人にとって、それは基本的確信の一部なのである。

いわば、それは、徒競走のルールのごときものである。同一のスタートーラインにならんで、用意ドンでいっせいに走り出す。それで徒競走の順位がきまってゆく。一等から三等までは賞品をもらえるが、そのほかは、なにももらえない。当然、ビリの人間もできてくる。しかし、出発点はまったくおなじであった。まったくおなじ条件ですべての選手は走り出した。頑張った人間が勝ち、力の足りなかった人間は敗れた、それだけのことだ。

人生においても原理はまったくおなじだ。結果として、優劣はついてくる。だが、スタートーラインは、おなじでなければならない。それでなければ、フェアでない。公正でない。多くの社会では、競争はかならずしもフェアでない。というよりも、そもそも競争の原理というものが存在しない。うまれながらにして、貴族の家にうまれた子どもは貴族であり、金持ちの家にうまれた子どもは金持ちである。出発点において、そこでは、あきらかに大きな差がついている。貧乏で、無名の人間がスタートラインにならんだとき、うまれながらの特権をもった人間は、はじめからゴールにはいって、テープを切っている。競争もなにもあったものではない。勝負は、はじめからきまっているのだ。

アメリカ人は、そういうハンディキャップつきの人生を否定する。アメリカでは、すべては同じスタートラインからはじまらなければならない。それが、アメリカ人の人生の原則である。まえに極端なアメリカ的思考パターンとして、七歳の子どもが六歳の子どもとあそぼうとしない、というエピソードを紹介した。だが、そのエピソードは、ハンデ抜きのフェアープレイの思想とかさなりあっている。七歳の子と六歳の子がいっしょになにかをする。しかし、そこでなにをしようと、七歳の子のほうが優位なのはあたりまえだ。

一歳きざみの年齢集団が意味するのは、たとえ一歳のちがいであろうと、とにかくハンディキャップを排除しようという思想である。六歳児は、七歳児から一年おくれて出発した。お互い、ハンデつきでつきあうのはおもしろくもないし、フェアでない。だからアメリカ人は、完全な同年齢集団というまったくおなじ条件の人間たちを基準にして生きる。はじめから勝負のわかった競争は、アメリカ人にとって、まったく無意味なのだ。