尊敬と憎しみの感情

つまり私は一方で太平洋戦争の敵国でありつい最近まで日本を占領していた、アメリカという国を、心のどこかで憎んでいたのであろう。一九六〇年の日米安保反対運動に私か参加したのも、心のどこかでアメリカを敵視していたためだったのだと思う。しかし他方で私はアメリカという、この未知の大国から送られている書物に畏敬の念を持っていた。当時私はすでにアメリカの言物を、三冊翻訳して出版していた。またマスーコミュニケーションの研究を始め、私が興味を持っていた分野の重要な文献はそのほとんど全てが、アメリカの研究者によって生み出されたことを知っていた。

その頃、日本の知識人の間ではよく「マスーコミの暴力」という言葉が使用されていた。それは初めは全ての連合国を含む全面講和に賛成していた新聞が、途中で共産主義国を除く単独講和論に変ったという、いきさつがあったからである。そのため多くの知識人が大新聞の態度に反対していたのである。しかしマスーコミュニケーションが社会の既成の秩序を、維持する機能を持っているということについて、もっとも洞察に満ちた分析を行っていたのは、政治的に無色な他ならぬアメリカの学者たちであった。このこと一つとってもアメリカが、ただならぬ国であることは明白であった。言いかえれば私はアメリカという国に対して、尊敬と憎しみとの入り交じった、複雑な感情を抱いていたのである。

だから私がアメリカに留学する準備のため米会話の勉強を始めたとき、それはただ単に語学の学習をするという以上の意味を、持つことになったのである。もちろん当時でも英語の読書力は誰にでも要求される、基本的な技術であった。しかしアメリカ人と会ってアメリカ流のアクセントの英語を話すことは、何か軽薄で教養ある知識人の、なすべきことではないという考えが、一般的にいき渡っていた。

その上アメリカ風の英語を話す者に対しては、「アメリカ帝国主義の犬という表現が、すぐ思い浮かぶほど反米的な思想の影響も強かった。しかしアメリカで勉強しようとする以上、アメリカ風であろうとイギリス風であろうと、ともかく英語を聴きとり、話すことができなければならない。私はいわば恥をしのんで四谷にある日米会話学院の入学試験を受けた。そしてめでたく初級のクラスに合格すると、毎晩六時から九時までの三時間、米会話の勉強をするために夜学に通い始めた。