安堵の泣き方

ベトナムの痛みをわが心とせよ、と言うことはできる。そう思うこともできる。しかし、他人の痛みをわが痛みとするのは至難である。人の痛いのや辛いのは、三年でも 五年でも我慢するよ、と言うこともできる。そういうことを言うと、眉をひそめる人もいるだろう。しかし、人は、他人の痛みや、哀れには、三年、五年どころか、生涯、容易に耐えるのである。しかし、自分の痛みには敏感で、感情が高まる。その感情の高まりが、涙腺のボタンを押すことがある。

他人ごとでも、容易に泣く人もいる。だかだいたいそれは、身につまされて泣くのであって、身につまされるとは、他人ごとを自分ごとに移して感情的に思うことであり、結局は自分ごとなのである。涙もろい人もいる。涙もろいの、身につまされるのということには、個人差もあるわけだし、その個人差が、程度の差ではなく、体質の相異と思われるものもある。

私のある友人の通夜で、お棺の顔の上の窓を開いた見知らぬ女性が、とたんにギャーと大声を挙げて泣き崩れたが。しばらくすると彼女は、陽気で明るい表情にもどっていた。どうしてあんなに騒々しく泣けるのか、その後、どうしてあんなにすぐケロリと明るくなれるのか、私には奇異であったが、そういうのは、奇異ではないのかも知れない。人にはいろいろな泣き方があるということなのかも知れない。

私の泣きには、自己の泣きと、安堵の泣き、あるいはその両者が混じったものがあったと思う。安堵の泣きの方には、多かれ少なかれ、自己が混じっているようだ、と思う。京城で泣いたあと、私は帝国陸軍の兵士になったが、軍隊では二度、ボロボロ泣きをしている。一度は、これも私小説的短篇に書いたが、仙台の連隊でリンチにかけられたときである。天皇陛下から御分身として御預かりしている三八式歩兵銃に、鼻毛ほどのゴミがついていたと咎められて受けたリンチであった。

私は、古年兵から許しが出るまで、中腰で、陛下の御分身を両手で捧げていなければならなかった。両手を突き出して、銃を中空にささえるのを、ササゲツツというが、長時間の中腰でのササゲツツは、身体もつらいが、ぶざまである。ぶざまな恰好を見物に供するのも、リンチのうちである。戦前は、遊廓かあって、女郎と呼ばれる女性たちがいたが、稼ぎの悪い女郎は、両手に、水を満たしたバケツを下げて立だされるという仕置きを受けた。