ふたつの劇的な出来事

ナセリズムは社会主義志向と革新の性格が濃厚であったために、アラブ統一を目ざしながらも、保守的な君主国との対決気運をむしろ煽りたてる結果にもなった。一九六二年、君主制から共和制に移行するクーデターが襲った北イエメンをめぐり、共和派を支援するエジプトと、君主派を支援するサウジアラビアが、なんと八年間も対決を続けたのはその典型的な例である。そんなアラブ世界も、非アラブのイスラエルとの緊張が高まったり、戦争状態に入ったりすると、一応の結束をかためる。共通の敵がアラブの結束剤の役目を果たすのだ。

だが、イスラエルとの対決が峠を越すと、アラブの結束は握った砂のように崩れてしまう。第四次中東戦争(一九七三年)で、南北から呼応してイ。スラエルに先制攻撃を仕かけたエジプトとシリアが、その数日後に早くも戦争収拾の方法とタイミングについて意見を対立させたほどである。自国の利益をまず優先させて考えるからだろう。アラブの連帯や統一の意識と、アラブ各国の国益はしばしば食いちがう。それは国家の枠組みが不安定ながらも、ようやくひとつの現実的重みをそなえてきていることを物語っている。

その傾向がさらに強まったすえ、ふたつの劇的な出来事が生まれる。エジプトとイスラエルの平和条約調印(一九七九年)が第一、それからイスラエルレバノン侵攻(一九八二年)に対してアラブ世界が実質的には傍観的姿勢を示したことが第二である。このふたつの出来事は、実は関連しあっている。アラブとイスラエルの四回にわたる戦争で、アラブ側の中核となって、最大の損害を出したのは、エジプトである。そして、イスラエルと和解したのも、エジプトが最初で、しかも今日までのところ最後である。アラブ統一をとなえたナセルが死去(一九七〇年)し、後継の大統領となったサダトは、やがて国名を「アラブ連合共和国」から「エジプトーアラブ共和国」に変えた。エジプト意識の高揚とエジプト国益重視の姿勢が象徴的にうかがわれよう。

そのエジプトがイスラエルとの和平へ独走し、それによってアラブ世界はかつてない分裂状態に陥ってしまった。エジプトを公然と支持したアラブの国はオマーンスーダン、モロッコなどにすぎず、しかもこれら三国ともみずからはイスラエルを承認してはいない。モロッコは一九八六年七月、イスラエルと公然と首脳会談を行って、対イスラエル和解ヘー歩進んだにとどまっている。アラブ全体の利益と一国の利益をどう調和させるかの問題が根本にあるといえよう。エジプトは対イスラエル和平の代償として、イスラエルに占領されていたシナイ半島のほぼ全域を取り返すことに成功した。イスラエル軍の撤退が完了したのは、一九八二年四月末であった。

それから1ヵ月余の六月上旬、イスラエル軍レバノンに大挙して侵攻した。イスラエルは南のエジプトから攻撃を仕かけられないことを確信したうえで、北のレバノンに攻め入ったといえる。エジプトはイスラエルと和平を結び、シナイ半島を回復したばかりであり、そのすべてを手放すようなリスクを冒したくない。そんなエジプトの心境をイスラエルに正確に読み取られていたのである。イスラエル軍レバノンパレスチナ武装勢力を徹底的に壊滅させ、レバノン国外へ追放してしまった。かつて、パレスチナ人のイスラエルとの戦いを支援することは、アラブの大義、つまりアラブが実現すべき重要な道義の主柱で、アラブ統一の核心にパレスチナ問題があった。