靖国問題と日中の経済関係

それを裏付けるように胡は、○三年八月に李肇星外相、九月に呉邦国全国人民代表大会常務委員長を相次いで日本に派遣し、日本との関係打開に積極的な姿勢を示した。李は「(日中)双方が戦略的に高度で長期的な視点から、両国関係の大局をしっかりとつかんで守る」よう訴えた(「東京新聞」○三年八月十二日付朝刊)。呉も講演で、小泉の「中国の発展は脅威ではなくチャンス」という言葉を高く評価し、首脳交流再開に強い意欲を示した。「日中関係は戦略的な高い見地から」、「大局を擁護する」姿勢で取り組み、歴史問題などを「適切に処理し妨害を取り除く」よう呼びかけた(「中日新聞」○三年九月九日付朝刊)。党中央の外交方針を忠実に反映する発言を続けてきた中国社会科学院日本研究所の蒋立峰所長は、当時のインタビューで「歴史問題のみを日中関係の政治的基礎とすべきでない」と明言した。

それどころか靖国参拝について、「首相が個人として参拝するのは止められない」「二〇〇一年に靖国へ参拝した後、盧溝橋へ行ったように首相の(反戦の)気持ちを表現することだ。これは中国側の理解を得られ、首脳交流の再開に役立つ」と事実上、私人としての靖国参拝を容認する姿勢さえ示した(「東京新聞」○三年八月十二日付朝刊)。靖国問題を相対化した胡政権の対日接近に、国内では党内の強硬派や民衆の反発が強まった。○三年八月にはインターネットで北京−上海間の高速鉄道計画への新幹線導入に反対する署名活動が広がり、九月には広東省珠海市で大阪の建設会社社員による集団買春事件が明るみに出て、マスコミで激しい対日批判が広がった。

さらに、この年の十月、バリ島で初めて温家宝首相と会談した小泉は中国国内の動向を顧みず、記者団に靖国参拝の継続を明言し、「中国側も理解している。日中友好の阻害とはならない」と述べた。このため温は国内で激しい批判にさらされ、その後、ことあるごとに小泉への反感を露わにするようになる。十月末には西安・西北大学で、日本人留学生の「下品な寸劇」(新華社)をきっかけに学生が反日デモを展開した。大学当局が学生を学内にとどめようとしたため、他大学から数万人が西北大学に押しかけ、大学施設や周辺の日本料理店を破壊し、公安車両十六台を焼く建国以来初の反目暴動に発展した。一連の事件で胡政権が試みた「対日新思考」外交は、致命的打撃を負うことになった。二〇〇三年十二月、北京で、唐国務委員の主宰で対日外交に関する大規模な会議が開催された。ここで日本に歴史や台湾問題の原則をはっきり示す方針が確認され、靖国問題を「後景化」させて対日関係の打開を図る方針は、事実上修正された。

対日政策の調整と時を同じくして、党内の強硬派が台頭し始めたことも見逃せない。○三年十二月、中国政府は日本側との協議で、日本最南端の沖ノ鳥島を日本が排他的経済水域EEZ)を設定できる島ではなく、「岩礁」に過ぎないという主張を始めた。この主張は当初、両国政府の発表から伏せられていたが、○四年三月、中国の活動家が尖閣諸島に強行上陸する事件を起こした後、日本政府も中国側の主張を公表し抗議を始める。尖閣上陸を強行した活動家組織「中国民間保釣聯合会」が旗揚げしたのも、対日強硬方針が確認された○三年十二月である。○四年夏には、こうした対日外交の転換や、政府による対日抗議運動の容認に乗じる形で、サッカーアジアカップの「反日」騒動が起きている。

年一回の靖国参拝を公言する小泉に対し、○四年から中国が取った戦略は、靖国問題と日中の経済関係を結びつけることだった。中国を訪れる日本の政治家や財界人に対し、中国要人は、北京と上海を結ぶ高速鉄道は技術的には新幹線が望ましいが、国民感情を考えると決断できないと指摘した。「靖国参拝さえやめれば、今すぐにでも新幹線に決められる」と極論する党幹部もいた。○四年八月末、東京都内のホテルで奥田碩日本経団連会長ら財界人と会食した小泉は、「私は日中友好論者だが、それと靖国参拝は別だ」「信条だから変えない」と持論をくり返した。しかし席上、財界人から「(日中)首脳会談ができるようにしてほしい」「どういう形で日中関係を考えるか、国民に説明すべきだ」など激しい批判が飛び出したという(「朝日新聞」二〇〇四年九月一日朝刊)。