心と体という区別を受けいれている現代人

どこか堅く、干からびて生気がなく、学生たちに敬遠されがちであった。彼はこの夢を見て、自分の研究の姿勢を変えねばならないと思う。しかし、それは大変危険であることを夢は告げている。彼が研究室で、このグラマー女性と結ばれたらどんなことになるだろう。すべて価値あるものには危険が伴う。彼は自分の変革を慎重になしとげねばならないと思った。この例は、夜見る夢も人生において重要な役割をもつこと、および、「性」ということが人格の発展についてもつ意義を示している。古来から、遊び人、プレイボーイという名は、性と結びつけて考えられてきた。このために遊びは低い価値と結びつけられる。しかし、先の夢に示されているように、性は新しい世界への通路になる。そこには常に堕落の危険性が存在するが。

性がたましいに至る通路として、どれほど重要であるかを、遠藤周作『スキャンダル』(新潮社、一九八六年)は見事に示してくれる。主人公の勝呂は作家として一家をなした人である。高く評価されている賞も受賞する。つまり、彼は社会人としての立場を確立している。だからと言って「安泰」と言えぬところが人間の面白いところである。社会のなかで立場が確立するというのは、いわば彼の上半身が安泰なのである。彼の下半身は宙ぶらりんである。どこと結びつけばいいのか。こんなときに、たましいというのは便利な言葉である。勝呂という人間を他の誰でもない固有の人として、しっかりと根づけているもの、たとえ社会とのすべての絆が切れたとしても、安心な基盤となるものとして、不可解なたましいという存在があると考える。

たましいとの接触を保つことによって、人間は安心して死んでいける。勝呂は社会的に高く、しっかりとした地位を得たときに、彼のたましいの基盤がいかに危ないものかを感じはじめる。それでは、性がどうしてたましいへの通路になるのか、まずそれは身体性とかかわっている。現代人の心は知的に傾きすぎて身体と切れていることが多い。先程の教授の例で言えば、彼の学問は具体性から切れてしまっている。たましいは、心と体という明確な分類を拒むものである。しかし、心と体という区別を受けいれている現代人は、たましいのことに気づきはじめても、それをどう表現し、どう生きていいかわからないので、多くの場合自分の身体や健康に関することに関心を示しはじめる。ジョギングなどをしている人が、宗教的情熱を感じさせたり、身体を大切にするための行為が儀式のような性格をもつのもこのためである。

性は心と体を結ぶものである。心のことでもあるし体のことでもある。そして、異性という不可解な存在と結ばれ、それによって新しい生命が生み出される。つまり極めて高い象徴性をもっている。だからと言って、有名な作家、勝呂氏が「スキャンダル」に巻きこまれると、社会的地位を失ってしまう。ここに強い葛藤が生じる。また、性が大切と言っても、単なるアソビとしていたのでは、むしろ、たましいに傷がつくくらいのことである。それが善なのか悪なのか、悪とするならば、なぜそれをなさねばならないのか。そのような緊張感を伴わず、たましいの世界に下降していくことはできない。その様相が『スキャンダル』という作品にはよく描かれている。

自分のたましいに必要な課題と言えば、それは人生の「仕事」である。しかし、それは日常の仕事とは異なる。むしろ遊びに近くなることが多い。「たましいの現実」という言い方がある。それは日常の仕事と異なり、むしろ夢に近い。仕事と遊び、現実と夢との間に生じる緊迫感を経験しなくては、遊びや夢がたましいの通路になることはない。アメリカに行った時、機中で面白い映画を見た。男女の愛に性など不要、というよりは性関係があることによって不純になるので、性抜きの純粋な愛による結婚をしたいと願う、数学の教授が主人公である。アメリカ流の映画で少し見ると結末がわかってしまう単純なものだが、ともかくこのような人物を主役にする映画をつくるところまで、アメリカ文化が変ってきたことを示している点が面白いと思った。性ということがあまりにも明らさまになり、わかってしまった(と錯覚した)ので、性がたましいへの通路でなくなってきたことを問題にしているのだ。