退院は目前

一九二九年、鳥海山のふもとの神職の家に生まれ、苦学して大学を出た。短歌には少女のころからのめりこんできた。妻を失った五人の子の父親であるひとと結婚、やがて夫が病むようになる。パートとして入った養護施設で働くうち、職員の資格を得て、さまざまな理由から親もとで暮らせなくなったこどもたちの支え手として活動してきた。夫と先妻との間のこどもをつぎつぎ独立させ、わが息子を生み育て、施設では八〇人のこどもたちの面倒を見る立場。「ちょっと発達のおくれた女の子がいてね、保育園児のとき、お弁当袋のひもが切れたのよ。すぐなおしてやったら、その子が目をまんまるくしておばちゃん神様って言ったの」こどもって何て面白い存在なのだろう、またかなしい存在だろうと思ったその瞬間から仕事の根が生えてしまった。

一九九三年三月まで通算二十六年を養護施設で過ごし、定年退職した。退職後は、施設のこどもたちのもうひとつの家として、自宅を開放し「おばあちゃんの家」というスポットをつくるつもりだった。実際「おばあちゃんの家」の表札もできて、一泊外泊のこどもを受け入れた。その直後に入院さわぎが起きたのだった。もっとも眸臓に異変を感じて入院したのではない。きっかけは歯痛だった。正確には左下あごの第一大臼歯が痛んで、近所の歯科医で抜歯してもらった。思いがけなくその部分が猛烈に痛み出し、おまけに発熱、痛みどめもてんで効かず、加えて何と舌の下にもう一枚舌様の肉塊がもりあがってきて、舌をあげさげすることもできない有様となった。

自宅からもっとも近い総合病院に救けを求めたのは、看護婦の友人のアドバイスもあってのことだったが、口腔外科の二人部屋のベッドに身を横たえたときは、心底ホッとした。鳥海さんは、自分のからだが頑丈なのかどうかは、わからない。なぜなら、ちょくちょく病気をしてきた。若いころ腎孟炎をわずらい、五十の声をきいたときは狭心症に襲われ、このときは検査で十三日間入院した。施設での仕事はこどもたちの母親がわりのようなもので、居室の掃除、食事の世話、入浴、けんかの仲裁、相談ごとから、ぎゅっと抱きしめてやること、通っている学校との連絡、看病、遊びの相手、勉強の手伝いと幅広く、夜は交替で寝泊りして、こどもたちを見守る。

週ニ・三回の宿直をこなしてきた。家へ帰れば、夫の病気の看護にも身と心をくだいてきた。休みなしの半生だった。まあしかし、大病、長期入院の経験はない。比較的頑丈なほうとも思うし、ひとなみと思えば間違いないだろうと、判断していた。歯痛は伏兵だった。入院は九三年八月下旬である。経過は順調で歯痛はおさまり、舌の下の舌も消えた。たった三日間でこの成果、鳥海さんは気分がよかった。入院したとき鳥海さんは、心に誓った。「いい患者になろう」。だから痛みは必死でこらえた。医師は笑って言った。「そんなにがまんすることはないですよ。痛み止めを使いましょう」いい患者は痛みをがまんする患者だと、鳥海さんは信じこんでいた。はぐらかされた思いではあったが、痛まないほうがそれはラクだ。

入院四日目。退院は目前だと張り切って、予定されている講演のレジュメなどを考えていたとき、突然内科医が二人、ベッドサイドにやってきた。医師は思いがけないことを告げた。「卵管と胆管の合流点がつまっていることがわかりました。放置しておくと危険な状態です。精密な検査と治療が必要です」入院と同時に、言われるまま、いくつかの検査を受けていた。しかし、そんな眸管と胆管との間かつまっているなど……田心ったこともなかった。第一、自覚症状は、歯痛以外ないのだ。いったいこれはどうしたことだろう。誰かほかの人の検査結果ととり違えているのでは……。二人の内科医は、白い紙にさらさらと図を書きはじめた。眸管と胆管の相関図である。その図で鳥海さんは、はじめて眸臓というもののありかを知った。それはからだのほぼ中央、腹部のまんなかへんにあって、肝臓のうしろ側、腎臓との間にある、心臓よりは大きい臓器だった。