異端宣告

さて、ベギンたちのどっちつかずの曖昧な境涯は、厳格な身分秩序を重んじる教会にも、世俗社会にも、その両方にやっかいな問題を投げかけた。生得の身分や階級を越境していったりきたりするなどは、秩序をおびやかすもってのほかの行為であった。帰属すべき家族もなければ修道院もないペキンの存在は、きわめて困惑させるものであった。そこで、教会はまず、彼女たちのモラルを疑い、さらにそれと連動してその正統教義からの逸脱を呪った。て一一一年から翌年にかけて開かれたヴィエンヌ公会議では、彼女たちの八つの誤謬をあげつらって、その存在に最後通牒をつきつけた。

ついでこの公会議決定に呼応する教皇クレメンス五世の教勅は、ペキン会の解散を命じて、彼女らを異端呼ばわりした。しかし、この広範な運動、しかも雲をつかむような、どこに逸脱の尻尾があるのだかわからない組織化されない不規則な運動は、教会にとって対処するのが至極困難であった。そもそも教義の誤謬を指摘するのぱよいが、彼女たちがじつのところなにを信じているのか、教会にはそれさえ厳密に確定することが容易ではなかったのであるから。

さらにペキンらは、社仝にひろく根をはった隠然たる勢力をほこっていた。そしてその理由は、彼女たちが女性であり、都市民衆たちの要求にこたえる、女性特有の社会的また精神的役割をはたしていたからである。それゆえ、そのひろい土壌から養分を吸いとるペキンを消滅させることは不可能であった。教皇クレメンスの抑圧政策が実行できないことがわかったので、ヨハネス二二世は、一三二〇年にその教勅を撤回した。そして、たんにネーデルラントの司教たちにそれぞれの
司教区で、ベギンたちがどんな行動をとっているかを調査させるだけにとどめた。

ところで、ペキンの社会的・精神的役割とはなんだったのか、それがここでの問題である。フランドル伯夫人ジャンヌが年金を付与して建てたベンド(ガン)のペキン会については、一三二八年に書かれたメモワールから、かなり詳しく彼女たちの生活をうかがい知ることができる。ベンドのペキン会の敷地には、中心に教会があり、そのまわりにはベギンたちのための多くの小屋が建っていた。それらは相互に溝ないし塀で仕切られていた。それぞれの小屋は独自に菜園をもち、何人かの女性が共同生活をしていた。

彼女たちは、貧しく、ベッドとたんす以外になにも持だなかった。けれども、彼女たちは自分たちの手で働いて生計をたて、他人に迷惑をかけないようにしていた。その仕事とは、都市から送られてくる羊毛を洗ったり布をきれいにしたりする仕事で、そこからわずかな収入をえて生活した。それぞれの小屋には、仕事を監督する女性が一人いて、仕事の進展にとどこおりのないよう気をつかっていた。